大工・スタッフ紹介(本所 裕康)

建築大工  本所 裕康

ちょっと 自己紹介をさせてもらいます。

 

昭和48年2月4日

おおい町名田庄三重に生まれました。血液型はB型です。

名田庄保育所、名田庄小学校、名田庄中学校を卒業しました。

名田庄の保育所のときは、親方のお母さんに習いました。

小学校に入ってからは野球と卓球をしました。

卓球は中学校までやっていました。一応キャプテン。

中学校の時は、名田庄では上手いほうやったけど、よそではぜんぜんだめでした。

 

高校は、小浜水産高等学校に入学。

地方の人たちと始めてしゃべったり、遊んだりしました。なんか、この時が楽しかったな。

 

高校のときは遊びたかったし、よう高浜のつれ(友達)のところに遊びに行って泊まってました。

夏は友達のところの浜茶屋でバイトをしました。

焼きそばを焼いたり、手漕ぎボートを出したりしていました。

一年から3年までずうっと夏は浜茶屋でバイト。おもしろかったな。

 

3年になって、卒業の時期になり、まだ自分でしたい事も考えられず

とりあえず家から出てみようと思って滋賀県の会社に就職しました。

そこは大きい会社で、スチールの家具とかデスクとか作る会社です。

その中にも、溶接、塗装、貼り付け、組立、梱包とあり流れ作業のところです。

それが2工場ありました。周りは工場だらけでした。

 

滋賀県にいっとる時に親父が兄貴の離れの家を建てるし、ちょっと手伝えって言うてきたので帰って手伝いました。

そのときに、『あ、なんか大工さんておもしろそうやな』と思い

親父に「大工するわ!」て言うたんです。

 

でも、 「あかん!やめとけ!」て言われました。

それでも、やっぱおもしろそうやし滋賀県から帰ってきました。

帰ってきてちょっとましてから親父の手元で大工しよ!と思とったら

「親の元で仕事習ってもあかん!」言われて親父の知っている大工さんに弟子入りしました。

それが親方です。

『うわっ!!大きい人やな』と思いました。

なんせ、親父も僕も背が低いので・・。

この時、22歳でした。

 

はじめは何をしたらええんか全然わかりませんでした。

木の事も全然知らんかったし『どうしよ・・』とおもいました。

弟子入りしてすぐに親方に、ノミ、手のこぎり、電気丸ノコ、ゲンノ(とんかち)

砥石を買ってもらいました。ごっつううれしかったです。

後のちょっとしたものは、親父も大工しとったので、親父からもらいました。

 

ノミ砥ぎは大変でした。それを毎日五回づつ続けるように親方から言われ、

朝・十時・昼・三時・仕事が終わってから、後は使ったらすぐ砥ぐようにと

それを繰り返した結果、今の自分がおるんやなあと思います。

なんでも辛抱、頑張る勇気が必要やなと思います。

 

親父が生きていたら一緒に仕事ができたのに・・

親父の分まで頑張ろうと思っています。

 

今は結婚して、3人の子供がいます。とても幸せです。

でも、この幸せはみなさまのおかげです。

いつも笑顔で、楽しく、親しみやすい大工さんになりたいです。